どうも、大麦ポテ子です。
まずは、他人の人生紀の記事をわざわざ見に来ていただきありがとうございます。
私のこれまでの人生、本当に色々ありました。
本当にさらけ出しちゃうよ!
という事で、早速本題に参りましょう。
※ 簡単なプロフィールはこちらをご覧ください。
現在22歳、社会人も4年目になりました。
高卒で1年大学を受験するか就職するかで悩み浪人していましたが、とりあえずノリで受けた現在の職場の採用試験に受かったので予備校に行くのもやめて就職しました。
高卒枠は3人のところ、40人応募していたので実に倍率は約13倍。
センター試験で5割も取れないポンコツでしたが、とりあえず転がした鉛筆のおかげで選択問題がほぼ正解していたという奇跡が起こったおかげで、今生活できていると言っても過言ではありません。
就職試験の事も、後ほど詳しくお話ししましょう。
1999年(平成11年)誕生
1999年、魅力度最下位でお馴染みの茨城県で生まれました。
父・母・姉という家族構成で、ギリギリ家族全員20世紀中に生まれる事ができました。
生まれて間もなく、水疱瘡 で死にかけたらしい……。
現在は、中学生の時にインフルエンザになってからのこと、ほぼ風邪もひかない元気な子になりました。
小さい頃はお腹にいた頃の記憶があったようで、よくお腹の中にいた頃の話をしていたそうです。
今はもう全く覚えていませんが、2〜3歳くらいからの記憶は今も多少あります。
また、家族の血液型が筆者以外みんな同じ血液型なのに対し、私だけ違う血液型だったので、授業で血液型の仕組みを習うまでは「実は血が繋がっていないのかもしれない」と割と本気で思っていました(笑)
幼少期
幼少期で記憶にあるのは、2歳の時にドイツに行った事。
一部だけ記憶に残っています。
そして、年中で幼稚園に入園。まぁびっくりするくらい幼稚園が嫌いで、通っていた幼稚園では幼稚園に行くと出席スタンプを押すというイベントがあったのですが、幼稚園についた瞬間母親から離れずに泣き続けていたので、たまにスタンプだけ押して帰るというなかなかレベルの高いことをしていました。もしくは園長先生預かり(笑)
あぁ、毎日出勤簿だけ押して帰りたい(切実)
心の声がダダ漏れだニャ
そんなこんなで幼稚園時代を過ごしていましたが、幼稚園に入園する前後(4歳くらい)で筆者の母親がピアノの先生をやっていたことからピアノを始めます。
生まれた時から自宅にはグランドピアノがありました。かなり贅沢な練習環境だったと思います。
始めた当初は「親が先生だもん、そりゃ習うよね」くらいの気持ちでしたが、これが後に筆者の人生を大きく変えることとなります。
小学生時代
そんな幼稚園時代を終え、小学校入学。
いじめを受ける
小学生時代、一番苦労したのはいじめでした。
筆者はいわゆるカーストトップと呼ばれるようなグループに所属している人と仲良くもしていたし、一人ぼっちでいつもいじめのターゲットになるような子とも仲良くしていました。
ただ、時にカーストトップ集団からは仲間外れにされる事もありました。
ひどい時には、イタズラのようなひどい似顔絵を書いた紙を筆者の足元に置かれたり、私物を隠される・盗まれる事もありました。よく耐えたと思います(笑)
小学3年生、突然変異
もちろんそればかりではありません。先ほど少し話題に出したピアノも、小学生になるとレッスンのレベルも上がり、1年生の頃からコンクールに出場するようになりました。
1、2年は結果が出ませんでしたが、3年生の時、両親から「金賞取れたらDSLite買ってあげるよ」の一言で本気で練習しました。結果見事に金賞を取ってしまい、両親もまさか取るとは思っておらず、追加で「逆上がりができたら」というミッションも加わりました。
もちろん、追加ミッションも無事クリアし、念願のDSLiteを手に入れました!!
何でもいいからDSが欲しかった……
ピアノをはじめ、小学3年生で色々変化がありました。
- 吹奏楽部に入る
- 前年までマラソン大会で20位台(4〜50人中)だったのに、突然一桁台に順位をあげる
- 前年まで泳げなくて夏休み特別授業に参加していたのに突然25m泳げるようになる
自分でもびっくりしました。でも、これがきっかけで中学は全力運動少女になりました。
吹奏楽部に入部
吹奏楽部ではクラリネットを吹いていました。
ドラマのような話ですが、筆者の通っていた学校はごく普通の市立小学校で、毎年コンクールに出場はするものの、絶対に入賞もできない弱小校でした。
それが、筆者が出場する小学校6年生最後のコンクール、奇跡が起こり、地区大会で金賞受賞。県大会でも金賞を受賞し、東関東大会まで出場したんです。
あの時の感動は、今でも忘れられません。
暑い体育館で一日中ひたすら楽器を吹き、仲間たちと切磋琢磨した日々が懐かしいです。
嵐にどハマりする
小学校4年生くらいになると、女の子たちは「俳優の○○が好き〜!」とか、「ジャニーズ好き!」という子が徐々に増えて来ます。
筆者の周りでは嵐が好きな子が多く、みんな口を揃えて「櫻井くんかっこいい〜〜!」と言っていました。
当時「櫻井…くん…??」という感じでしたが、取り残されるのが嫌で「私も好き〜〜!」と言っていましたが、「そんなにみんなが言うなら……」と思い、ついに調べることにしました。
これが今も抜けられない底なし沼に足を突っ込んだ瞬間でした。
え、何このお兄さん……カッコイイ……
筆者はハマるととことん追求してしまうタイプだったので、凄まじい勢いで嵐について調べました。
また、当時木曜日の19:00〜の番組といえば『ポケモン』だった筆者はすぐに『VS嵐』に変わりました。
小学生の頃は少ないお小遣いを使って、駄菓子屋や雑貨屋に売っている非公式のブロマイドを買いまくり、ブロマイドを枕元に置いて寝ていました。今思い出すと笑えますが、良い思い出です。
卒業直前、突然襲った東日本大震災
2011年3月11日(金)あの時小学6年生だった筆者はその日、学年全体で卒業前の奉仕活動を行なっていました。
その日、クラスの男子が奉仕活動中に何かをやらかし(何をやらかしたかは忘れました)、午後から卒業式の全体練習だったのですが、筆者のクラスだけ「卒業式に出るな!」と教室に閉じ込められました。
そこで何を思ったのか、みんなが俯きしんとしている教室の空気の中、筆者は突然立ち上がり
卒業式に出させてください!お願いします!
と頭を下げたんです。今思い出しても笑えます。
普段恥ずかしくて人の目を見るのも苦手な人間がこの時だけ大声をあげました。
そして無事、体育館での卒業式の全体練習に出席することができ、呼びかけの間に歌う「旅立ちの日に」の伴奏オーディションを勝ち取った筆者がそろそろピアノに向かおうと思ったその時、大きな揺れがやってきました。
体験したことのない大きな揺れ。目の前に降ってくるガラスの破片。凄まじい音の地鳴り。
今でも大きな地震がくると震えが止まらないのはこの時の記憶が鮮明に残っているからだと思います。
全学年校庭に避難し、ひたすら自分の親の迎えが来るのを待っていました。
筆者の母はお店のトイレで被災したとのことでしたが、水が止まる前に急いで流し、歩いて迎えに来てくれました。
家の中はめちゃくちゃで、中で過ごせる状態ではなかったのでその日は車で一夜を過ごしました。
(今でも悔しいのは、前述のとおり嵐にどハマりしていたため、その日は相葉くん出演のドラマ「バーテンダー」の放送日だったのですが見れるはずもなく、来週くらいに放送するのかな〜と思っていたら、普通に放送していたようで見逃してしまった事です。同じ思いをした人、絶対いると思います!)
話が逸れてしまいましたが、卒業式は体育館では出来ず、教室で行われました。一人一人の卒業証書授与は各教室で行われ、校長先生が各教室を回りながら、別の先生がカメラを回し、それをテレビで観るという不思議な卒業式でした。
そして、全員合唱の「旅立ちの日に」は校庭で歌いました。外にコードを引っ張り、電子ピアノで伴奏しました。
イレギュラーな卒業式でしたが、無事に卒業式を迎えられた事にはとても感謝しています。
中学生時代
6年間の小学校生活も終わり、中学校入学。
入学式も体育館が使用出来ず多目的室で行われました。
テニス部に入学。女子部の洗練を受ける
入学してすぐ、部活動見学がありました。吹奏楽部に入りたかったのですが、苦手な子が多く入部しそうな感じだったので少し習っていたテニス部を見学しました。
ただし、そこは恐ろしい場所でした。
部活動見学は大体、先輩が優しく話しかけてくれて「是非、入部してね!」というものだと思うのですが、体験入部から「外周5周走れ」「素振り100回」「ついてこれないなら入部するな!」というなかなかのスパルタな部でした。
筆者の通っていた中学は、他校が混じらないため、中学生になってもそんなに変わる事はありません。
そのため、小学校の吹奏楽で一緒だった先輩や同じこども会で仲良くしていた先輩がテニス部に入っていたのですが、小学校のとき仲良くしていた先輩も人が変わったように厳しくなっていてました。
あの、中学生になって突然上下関係が厳しくなる現象、誰か名前つけてくれませんか?
ただ、当時なぜか筆者は「あえてこの状況に身を置いて、メンタル鍛えてやるぜ!」という謎ドM精神を発揮し、女子テニス部に入学しました。
筆者の入っていたテニス部のルールが強烈すぎたのでまとめてみました。理不尽すぎてもはや面白いです。
- 先輩の前で笑うな・喋るな
- 片足立ちするな
- 日焼け止めを塗るな
- 朝練は開始の一時間前までに正門前に集合する事(さすがに先生からの指導が入り、途中で改善されました)
- 先輩が視界に入った瞬間にどんなに遠くにいても挨拶する事(しかも女子部の甲高い声で)
- 歩くな、常に走れ
- 腕まくりするな
- 座るな
と、思い出しただけでこれだけありました。いや、本当によく耐えた。
ただ、この厳しい部活(かなり理不尽でしたが)のおかげで成長した部分もありました。まず、1年生の時はほぼコートに入れずずっと走っていたので、長距離がかなり得意になりました。
そのおかげで、体育テストの20メートルシャトルランでは100回いくようになったり、臨時の駅伝部にも召集され、県大会で入賞することもできました。
また、テニス部でも最後の総体では県大会に出場する事もできました。
そんな部活だったので、筆者の代は入部者3人。女子テニス部は大体どの学校も1学年10人〜20人くらいいたので、かなり浮いていました。
部室に閉じ込められた事も、理不尽な事でコート出禁を食らった事もあり、3人で「一斉に辞めよう!」と言っていた事もありましたが、誰一人欠ける事なく終えることができました。良い経験になりました。
辛かった〜〜〜!(本音)
いや、閉じ込められるのは普通じゃないからね……
「断るのが苦手」で大変な事に
中学時代ではもう一つ、当時付き合っていた彼と色々ありまして……(苦笑)
実は筆者、とても断るのが苦手な人間なんです。そのせいでとても苦労しました。
彼はなぜか自分から振ったくせに「ポテ子なら押せばイケるぜ!」みたいな噂を校内に流し、振られた当時中3だった筆者は彼と別れた後、喋った事もないような後輩くん達に次々と告白される事になります。
※モテたということではなく、みんな自分の欲求を満たすためです。
告白され、「なんか断れないし……」で今まで名前聞いた頃あるなぁくらいの人と付き合い、1週間で別れる。そんなことの繰り返しでした。
あの頃の自分に喝を入れたいですね。別れるたびにまた噂を流される訳です。本当に時間の無駄でした。
とにかく、「嫌な事は嫌」と言う事!こうして失敗した人間がここにいます。後々絶対に後悔します。
初めてのライブ参戦(ARASHI 嵐フェス’13 NATIONAL STUDIUM 2013)
※ 参戦とは……音楽ファンの間でなかなかチケットが取れない、戦場のように盛り上がる場所に行くということか
ら、「ライブに行く」ことを「ライブに参戦する」と言います。(諸説あり)
こちらも中学3年生の時。確か部活帰りで疲れて家に帰った瞬間リビングのソファーで寝てしまい、起きて当時買ってもらったばかりのスマートフォンを見ると一通のメールが。
「おめでとうございます!第一希望で当選です!」
…えっ、えっ、えぇぇぇ〜〜〜!?
あの嵐に会える……!?
と、速攻で目が覚め「夢なのでは…」と思いながらもすごく喜んだことを覚えています。
しかも当たったのは最終日。
昔の国立競技場で最後のライブというかなり倍率の高いライブだったため、本当にレア中のレアチケットだったと思います。
初めての生嵐、すごくカッコ良かったです。ただ、国立競技場で見る嵐は米粒くらいの大きさでした(笑)
ここから「ライブ」というものにハマってしまった筆者は高校生になると全国に飛んで行きます。
フッ軽か!
高校生時代
人生を変えた出会い
高校一年生の時、ピアノを習っていた影響で、埼玉でとある有名な大学教授による古楽器のワークショップに参加するオーディションを受け、見事合格し、先生からのレッスンを受けたのちに最後発表会を行いました。
発表会の後、打ち上げがあったのですが、その時教授から、
「東京藝大を目指してみないか」
と声をかけてもらい、そこから筆者の人生は大きく変わる事になりました。
授業中は内職、毎週末の過酷なレッスン
筆者は正直、そこそこの大学に行って、就職できればいいな〜と思っていたため、高校選びは「家から一番近い高校」と本当に適当に決めてしまいました。
今でも物凄く後悔しています。高校選びは慎重に!
通っていた高校はごく普通の「自称進学校」と呼ばれる私立の普通科大学進学コース。もちろん、音楽で藝大を目指す人なんて全くいません。(美術で狙っている人は1〜2人くらいいました。)
しかし、あの東京藝術大学を本気で目指すとなると、文系教科の他に楽典を勉強しなくてはなりません。
その時は、先生にも許可をもらい、受験に不要な教科の時は内職でひたすら音楽の勉強をしていました。
ピアノを習っていたとはいえ、受験の音楽はみんなが知っているような「フォルテ」や「ピアノ」の意味を知っているくらいでは合格できません。
また、筆記だけではなく実技も重要でなので、受験直前は早退や遅刻をしながら、近くの音楽ホールを借りてとにかく隙間時間は全て練習に費やしました。
東京藝大は実技試験に合格しないと筆記試験まで受けることができません。
そのため、毎週末、教授の住む東京に通い、実技の先生2人と筆記試験対策の先生1人についてもらい、時には怒られたり、「帰れ!」と言われたりしながら、必死に食らいつきました。
筆者は練習が嫌いだったので本当にしんどかったです。
最初は正直、「有名な大学だから、入れたらすごいよなぁ」とか、「有名な教授に声かけられる機会なんて滅多にないからやってみよう!」「もし受かったら親も喜んでくれる!」と本気で音楽の道に進みたいというよりかは、周りの評価を気にして始めてしまったので、最後の方は本当に辛かったです。
あの時、ちゃんと考えればよかったと今でも思いますが、後悔はしていません。
毎週かかるレッスン代と交通費、そして周りからの期待で後には弾けず、「当たって砕けろ」精神で受験まで必死に練習しました。
一次試験で不合格
受験番号1番。本当に嫌でした。
一時試験の結果を見に行きましたが、見事に「1」が抜けていました。
一時試験は、最初に即興演奏のような項目があり、その後課題曲を弾くという流れでした。
とにかく即興演奏が苦手だったので、当日その時点で「落ちたな」と思いましたが、課題曲で魅せました。
しかし、結果は不合格。
後ほど教授に聞いたところ、即興演奏がよければイケたとの事でした。
教授からも親からも、もう一年即興演奏を中心に練習してまたチャレンジしようと言われましたが、筆者は正直続けるか迷いました。
したくなかった浪人生活
予備校に入学
とりあえず、藝大一本しか受けられなかったので、不合格になってしまった以上浪人決定です。とりあえずはじめは再チャレンジする方向で、文系科目を中心に予備校に通って勉強しました。
周りの予備校生はみんな良い大学を目指して浪人。筆者のように浪人したくなかった人はほとんどおらず、モチベーションが全く上がりませんでした。
どちらかというと、「時間あるし、運転免許でも取るか」と自動車学校に行き、速攻で運転免許を取りました(笑)
親と本気でぶつかり、初めて泣かせた
浪人生活を始めて1ヶ月。5月になった頃、筆者は藝大受験を諦めることを決め、両親とあるレストランに行き、話し合いをしました。
父親は、「自分の決めたことは応援する」というスタンスだったので、残念がっていましたが反対はしませんでした。
しかし、筆者の母親は音大卒でピアノの教師をやっていたくらいですから、本気で断られました。最終的には母を泣かせてしまいました。
その後もしばらくは話さない日々が続きました。
また、筆者も楽器を弾く事を辞めてしまいました。
進路を模索しながら、就職試験を受けてみる
藝大に行かなくなったとなると、次の進路を考えなくてはいけません。筆者は特に「この勉強がしたい!」とか将来の夢が全くなかったので、一からのスタートにかなり悩みました。
藝大で必要な科目は英語と国語のみだったため、それ以外ほぼほぼ授業を聞いていなかったのです。
その2教科で受験できるのは幼児教育系の学部がほとんどでした。
「ピアノもあるし、とりあえず幼児教育の道に進んで免許を取ろう」と思い、とりあえずなんでもいいから大学に入ろうと名も知らない大学へ受験を決め勉強することにしました。
しかし、やはりモチベーションが上がりません。そんな時、父親が「とりあえず就職試験受けてみれば?」と提案してくれたので、何も勉強せずに就職試験に臨みました。
高卒枠の採用は若干名。
何人だよ!!
とりあえず、「受かったらいいな〜」くらいで、ほんの少し(累計2〜3時間)対策をして、一次の筆記試験に望みました。
ちなみに、この時も大学受験に続き、受験番号は1番でした。
筆記試験では、高校までの5教科が満遍なく出題されたのですが、まぁびっくりするくらい理数が分からない。
とりあえず、5択だったので、わからない問題は全部鉛筆を転がしました。
まさかの一次試験合格
なんとなく「行けんじゃね?」という謎の自信はあったのですが、その自信のとおり見事一次試験合格。
結果は高卒枠で応募した40人中の3位でした。
鉛筆転がして5択当たりすぎでしょ!
ただ、ここで筆者にとってとても重大な問題が発生します。
二次試験、V6のライブと日程が被る問題
二次試験はある日曜日の朝イチでした。
しかし、試験前からすでにV6のライブに当選しており、土日どちらもチケットを持っていました。なんと会場は静岡。
人生がかかっている就職試験。でも、絶対に行きたいライブ。本気で迷った結果、どちらも行くことに。
土曜日のライブが終わった瞬間にダッシュで新幹線に乗り地元に帰る。そして、次の日朝イチで二次試験(面接)をこなしたあとそのまま静岡に行ってライブを見に行くというハードスケジュール。
日曜日の公演がオーラス(最終公演)だったんです……
しかし、さらなる問題が。なんと台風が直撃していたのです。
面接はなんとかこなし、「あー落ちたな」と思いながら、急いで静岡に向かいましたが、新幹線も徐行運転で間に合うかどうかの勝負でした。
結果、公演には間に合い、無事にハードスケジュールをこなすことができました。
就職試験に見事合格!その流れで就職する事に
ライブに夢中でしたが、実際「落ちたな」と思った二次試験の面接も無事に合格。二次試験は7名しか残っていませんでした。実に倍率約6倍。そして最終的に高卒枠で合格したのは3名だったため、倍率は13倍でした。
本当に筆者はポンコツだったので、今でも奇跡だと思っています。
また、ライブのことばかり考えていたため、面接も何を話したかもうあまり覚えていませんでしたが、結果開示でなんと全体1位でした。びっくりです。
特に勉強したい事もなく、安定している会社だったため、そのノリで就職することにしました。まさか、自分でも高卒で就職するとは思ってもいなかったのでびっくりでした。
人生山あり谷あり
ここまで、誕生から就職する前までをご紹介しました。本当に色々ありすぎて長くなってしまいました。
すみません…
ただ、大学受験までの辛かった思い出は一生忘れません。あの時の過酷な日々を経験したからこそ、昔打たれ弱かった自分も肉体的にも精神的にも強くなれたんだと思います。
就職してからについては、次回第二弾でお届けしたいと思います!
第二弾では、高卒で就職した実体験をもとに感想や辛かったこと、また社会に出て巻き込まれた事など、就職してからも良くも悪くも色々な事を経験したので、そちらについても書きたいと思います。
ご覧いただきありがとうございました!何か皆様の参考になれば嬉しいです。
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